奈良時代と平安時代、日本は十数回にわたり遣唐使を派遣し、この時期に中国の唐朝から伝わった点心は「唐菓子」または「唐菓物」と呼ばれました。
中国の文献には唐菓子の記載がないため、唐菓子は架空のものであると考える人もいます。
基本的に、「大唐から来た菓子」というこのような表現は外国でのみ存在するものであり、中国でこのように呼ぶのは意味的に適切ではありません。
同様に、茶席菓子も唐菓物から伝わったものではありません。主要な材料である白鳳豆と製糖技術は江戸時代に日本に導入されたためです。
古墳時代から、日本には中国から伝わったお菓物が存在していました。初期の段階では、これらの高級なお菓物は宗教的な目的で使用され、通常、僧侶や貴族だけがこれらを味わうことができました。
佛教と共に日本に伝わった唐菓物の多くは揚げ物でした。唐朝のお菓物が主に揚げ物であったわけではなく、遣唐使が日本に帰国する道のりが遠かったため、揚げ物のお菓子は満腹感があり、持ち運びが便利だったからです。
また、遣唐使は唐朝から砂糖も持ち帰りましたが、それは当時比較的貴重だった石蜜ではなく、デンプンから精製された水飴でした。その量が少なかったため、主に病気の治療に使用されました。
遣唐使が日本に持ち帰ったお菓子
日本の平安時代に書かれた『和名類聚抄』には、唐菓物は米粉やパンを使用し、形を整えてから揚げると記述されています。
このような揚げ菓子は現在でもあります。例えば、江米條や寸棗などのお菓子があります。
記録によると、唐菓物は全部で8種類あります:梅枝、桃枝、餲餬、桂心、黏臍、饆饠、鎚子、団喜。これらの中には、餡が入っているものもありますが、現在の揚げ糯米棒のように、餡がないものもあります。
「和名類聚抄」では、これらの唐菓物の形状については触れられていませんが、これらの名前は主に形状に基づいて命名されており、味の違いはそれほど大きくありません。
江戸時代の「集古図」では、唐菓物の形状が描かれていますが、年代が古いため、初めて伝えられたときの形状ではない可能性も否定できません。
千年以上の時間が経過し、日本の飲食の好みは変化しました。初期の唐菓物は、当時の資源に制約され、甘さは主に中の餡から来ていました。例えば、栗、杏、柿などです。
また、これは僧侶の飲食や祭りの供物であり、基本的には菜食です。
さらに、唐朝の飲食の特徴に基づいて、包み皮にもさまざまな香辛料が加えられ、その味は現代人の好みには合わないかもしれません。そのため、現在では京都の清浄歓喜団だけが、元の唐菓物の形を保っています。
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